可児才蔵(かにさいぞう)は美濃国可児郡(現在の岐阜県)出身。斉藤龍興、柴田勝家、明智光秀、前田利家などの戦国大名に仕え、森長可に仕えていた時に戦で上げた敵の首級に目印として笹を口に含ませたことから通称『笹野才蔵(ささのさいぞう)』の名で知られるようになりました。関ヶ原の戦いでは福島正則に従軍し、17の首級をあげたことで徳川家康から称賛されました。”戦国最強”と呼ばれた武勇で、博多では明治以来、若侍の赤い衣の意匠で猿を伴った。笹野才蔵の博多人形が”疫病除けの神様”として多くの家で飾られてきました。※ある夜、暗闇に紛れて近づいたもののけに才蔵が一太刀浴びせたところ、もののけは疱瘡の神であって、疱瘡を武をもって退けたとの逸話が残っている。
西暦661年。朝鮮半島での友好国百済(くだら)の滅亡という有事に際して、時の女帝であった斉明天皇が飛鳥の地を出て都を始めて近畿の外の『筑紫』(現在の福岡)の地に移しました。この遷都には斉明天皇の皇子である、中大兄皇子(後の天智天皇)や弟の大海人皇子(後の天武天皇)を伴った本格的な遷都でした。その地は『日本書紀』によれば那の津にほど近い『磐瀬宮(いわせのみや)』と記され、そこは間もなく『長津宮(ながつのみや)』と称されます。その後、宮はさらに『朝倉橘広庭宮』(あさくらたちばなひろにわのみや)に移されました。『磐瀬宮』の推定地の一つは西鉄高宮駅付近とされ、『朝倉橘広庭宮』は朝倉市や小郡市、太宰府市などの説があります。この出来事の後、天智天皇や天武天皇の施策が礎となり、東アジアの規範に準拠した律令制度に基づく古代国家『日本』が誕生しました。この福岡の地にかつて国都があったことは、この地が地政学的に古代からアジアとの接点であったことを物語っています。