起源七百八十二年 博多祇園山笠の歴史



博多祇園山笠の起源には諸説がある。櫛田神社の社伝によると、祭神の一つ祇園大神(素盞嗚命)を勧請したのが天慶四(941)年。すでに都(京都)では現在の祇園祭につながる御霊会が行われており、勧請間もなく始まったという説。また、文献的初見である「九州軍記」に基づいて永享四(1432)年起源説もある。

諸説がある中で、博多祇園山笠振興会は一般に広く知られている聖一国師が仁治二(1241)年、疫病退散のため施餓鬼棚に乗って祈祷水をまいたのが始まりという説を取っている。当時は神仏混淆の時代。これが災厄除去の祇園信仰と結びついて山笠神事として発展したというのだ。この1241年を起源として、2023年の本年は782年の伝統を重ねる。

時代は鎌倉、室町から戦国時代。博多の町は大陸貿易の中心として栄え、それが故に戦国大名、豪族の争奪の場となって焼け野が原と化した。その復興を命じたのが豊臣秀吉で、「太閤町割り」「博多町割り」と呼ばれる。その間、博多山笠も隆盛、衰退を繰り返したに違いない。 山笠は、古くは高さ12メートル前後のものをゆっくりと舁いていたが、「櫛田社鑑」によると、貞享四(1687)年正月、竪町(恵比須流)に嫁いだ土居町 (土居流)の花嫁が、花婿ともども里帰りしたところ、土居町の若者が余興として花婿に桶をかぶせるなどしたため、竪町の若者が怒って押しかけて一触即発に。この場は何とか収まったが、夏のお祭りの際、恨みが残っていた恵比須流が昼飯を食べていた土居流を追い越そうと走り出し、土居流も負けてはならじと走り、これが評判を呼び、「追い山笠」に発展したという。

明治維新後も何度かの危機を乗り越えて現在の博多祇園山笠がある。

   

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