・櫛田入り ・法被 ・舁(か)く ・追い山笠 ・人形づくり ・棒洗い ・試し舁き ・子供山笠 ・追善山笠 ・標題 |
・清道旗 ・地下足袋 ・直会(なおらい) ・博多手一本 ・小屋入り ・棒締め ・飾り付け ・男の野点 ・差し山と堂山 ・鎮めの能 |
追い山笠ならし(7月12日午後)、追い山笠(同十5日早朝)では、一番山笠から順に櫛田神社の境内(清道)に山笠を舁き入れる。
山笠は清道旗を回って境内を出て、博多の街(追い山笠ならし約4キロ、追い山笠約5キロ)に飛び出す。
この舁き出しから境内を出るまでを“櫛田入り”と呼ぶ。距離は約112メートル。
所要時間の計測があり、各流とも精鋭で臨む。
全コースが“長距離走”(舁き手は走りながら次々に交代する)なら、こちらは“短距離走”で、舁き手は一気に駆け抜ける。
最初の出足の良さ、清道旗の回り方、その後もスピードが保てるかなどがポイント。
現在は各流が三十秒前半で舁いており、正確を期すため、百分の一まで計測する。
周りには桟敷席(有料、約 1800席)が設けられていて、所要時間の発表に「速ければ」沸く。
追い山笠のコースには三つの清道旗が立てられている。いずれも各流の舁き山笠が回るので、見物のポイントでもある。
最初の旗は櫛田神社の清道にあり、“櫛田入り”の所要時間はこの旗を巧く回るかどうかに左右される。もともと、何もなかったが、各流の回る位置 が微妙に異なり、紛議にもなるため、嘉永元(1848)年、東町下の提案し、採用された。今も下東町が管理、祭りが始まると立てる。
二つ目が東長寺、三つ目が承天寺の前。東長寺は明治初めの神仏の分離まで櫛田神社を統治しており、承天寺は博多祇園山笠の発祥と深い関係にある。江戸時代 を通して現在と同じように門前まで舁き入れていたが、一時途絶し明治26(1893)年、ここも正式清道とし、土俵で支える「清道旗」を立てて各流が回ることを義務 づけた。
江戸時代の屏風絵などを見ると、博多山笠の舁き手は締め込み一本で、上半身は裸。足元はわらじか、裸足とごく軽装だった。しかし、明治 31年の紛議(県知事による中止の提議と妥協)で“半裸は野蛮”との批判を受けて以降、各町それぞれが独自の法被をつくり、身に着けるようになった。現在 もこの延長線上にあり、昭和41年実施の町界町名整理後もほぼ旧町名単位で参加する土居流、大黒流、恵比須流はそれぞれに異なる法被を着用。同整理後、新 町名ごとの参加に変えた西流は新町名の法被を採用、東流、中洲流、千代流は流の統一を図るため、流全員が同じ法被を着ている。どの形式にしろ、舁き手が自 分の法被に自負と愛着を持っていることは確かだ。法被の種類としては40数種ほどで、戦前に比べるとやや少ない。
土の上にそのまま、じか (直)に履く足袋(たび)という意味から“じか足袋”。「地下」は当て字とか。古くは「張り付け式ゴム底足袋」。発明は大正初期。福岡県久留米市の足袋製造業 石橋徳次郎だ。徳次郎の会社「日本足袋」などで販売。近隣の三池炭鉱で人気となったことで全国に広がった。
山笠の舁き手はもともとわらじか裸足。現在の地下足袋になったのは大正下期以降と想像される。わらじのように切れることがなく、足元がしっかりしたのでは ないだろうか。数年前から、スニーカーの履き心地に近い、底に発泡材を入れた「エアー入り」の人気が高まっている。時、場所などに応じて使い分けている舁 き手もいるようだ。
肩に山笠の棒を乗せて走ることを「舁く」と言う。そうする男たちを「舁き手」、また、その山笠のことを「舁き山笠」。この「舁く」「舁き」は現代人には聞 き慣れない、書き慣れない表現ではないだろうか。「舁」は常用漢字に含まれず、普段は「担ぐ」などに置き換えられているため。「舁く」について調べてみる と、お祭り用語として全国的に「神輿(みこし)舁き」といった具合に使われている。「駕籠(かご)をかく」の時の“かく”も「舁く」である。「学研漢和大 字典」によると、「舁」という文字は「二人が両手で物をかつぎあげる」の意味。上、下のつくりとも両手を表現しているそうだ。「広辞苑」には「物を肩にか けて運ぶ。特に二人以上で肩にかつぐ」とある。 「舁く」とともに「担う」、なまって「いなう」という言い方をする人もいる。
「直会」の意味は「神事が終って後、神酒・神饌をおろしていただく酒宴」(「広辞苑」)。
舁き山笠行事が済んだ後、各町に戻った舁き手は直会に臨む。戦前までは日本酒に昆布、スルメ、青梅など簡素であったが、今はビール、日本酒にから揚げ、刺 身、煮物などと“メニュー”は豊富。これらを用意するのが若手やごりょんさん(奥さん)たち。ごりょんさんは祭りには出ることはできないものの、参加している意識はグンと高 まる。事前に相談して担当の日時や料理の内容を決める。
直会も“教育”の場だ。長老やベテランが先に手をつけ、若手はビールや日本酒などを注いで回らなくてはならない。これが済んで、初めて若手の順番となる。危険を伴う祭りだから“秩序”が求められるといえよう。小学生の世話を任せられた中学生もしばらくお預け。
このお祭りの掉尾(ちょうび)を飾るのがこの神事だ。旧暦時代は6月15日の夜明け、つまり満月が西に沈み、東の空が白み始めるころに行われていたが、新 暦の現在では一か月遅れの午前4時59分に設定されており、天文の運行と関係がない。 ただし、夜明けの行事であり、神々しい雰囲気も漂う中で執り行われ る。舁き山笠は午前1時半ごろから櫛田神社前の土居通りに順番に並べられ、舁き手は各流の町内毎に続々と集合。お参りをした後はひたすら開始を待ち続け る。満員の桟敷席、沿道に詰め掛けた見物客が待つ中、午前4時59分、大太鼓の合図とともに一番山笠がドッと“櫛田入り”。清道旗を回ったところでいった ん山笠を止め、見物客を巻き込んで「博多祝い唄」の大合唱。誰もがゾクゾクとする一瞬で、「魂が震える」と表現する人もいる。
歌い終わると、山笠は境内を出て博多部に設けられた“追い山笠コース”(約5キロ)を懸命に舁く。午前4時59分という出発時間は「追い山笠馴らし」の 項でも述べたが、一番山笠だけに認められた「博多祝い唄」を歌う時間として一分間前倒ししているためだ。従って、二番山笠は六分後、三番山笠以降は五分間 隔の舁き出しで、そのまま須崎町の廻り止め(ゴール)を目指す。“櫛田入り”“コース”ともに所要時間を計測し、各流はその結果に一喜一憂するが、優勝旗 や賞状などがあるわけではない。これもこのお祭りのすがすがしい一面といえよう。山笠が駆け抜けた櫛田神社の能舞台では午前6時から荒ぶる神様に捧げる鎮 めの能が演じられる。
博多では会合であろうと、宴会であろうと、締めの作法は決まっている。会合は他地域なら拍手で終わるところが、「博多手一本」となる。年長者や会のリー ダーが指名され、参加者の前に立つ。全員が立ち上がり、体の前で手を打つ態勢になると、「手ば入れまっしょ」と声を掛ける。「手一本」を活字で表すのは難 しいが、しいて書けば「よーお」(シャン、シャン)、「もう一つしょ」(シャン、シャン)、「よーと三度」(シャン、シャン、シャン)。シャンは手を叩く 音の表現と思っていただきたい。会合で結論が出ていれば「後日、異議はありません」の約束でもある。
宴席の場合は、この前に「博多祝い唄」の唱和となる。指名された三人がリードして一番、二番、三番と順番に歌う。これで宴会はお開き。「手一本入れたら杯はもたぬ」という格言もある。だらだら飲まないのが博多のしきたりだ。
いずれの山笠も博多人形師が手がける。素焼きの人形に彩色する博多人形と異なり、等身大以上の武者、奥方、アニメの主人公のほか、馬・牛などの動物、きら びやかな館、岩こぶ、波、川なども作らなければならない。大変は作業だ。割った竹で骨格を作り、和紙を張って整えて彩色。_人形には博多織や金襴で つくった着物を着せる。頭(顔)や手は和紙やおがくずなどを固めて別に仕上げるが、最近はウレタン彫り、木彫りも増えてきた。ちょうど梅雨期が作業のピー ク。糊を多用するため、空模様が気になる。
その年、山笠を建てる位置に山笠台の部材や縄、棒などを並べて組み立て作業の安全を祈願する。山大工さんの作業小屋で行う流もある。山笠台は独特の構造をしており、しかも釘を使わない。ために熟練の山大工さんらが当たる。
取り付けられる六本の棒は山笠のシンボル。6月の初旬、各流の当番町役員や若手が櫛田神社の浜宮(博多区築港本町)に運んで、海水を勢いよくかけて洗い清める。むろん、神事なので、洗う前には神官がお祓いをする。
6月の中旬から下旬にかけて博多の街に「ぼー(棒)締めた!」「ぼー締めた!」の掛け声が響き渡る。組み上げた山笠台に六本の棒を固定する作業の際の若手 たちの声だ。山大工さんの指導で、若手たちが汗を流す。表、見送り(裏)とも一本の麻縄を巻いて取り付けるが、しっかりと固定するため“おやし棒”と呼ば れる棒をテコにして締め上げる。山大工さんも縄を木槌で叩いて加勢するが、その乾いた音と、縄が締まるときの「キュー」「キュー」という音も祭り近しを感じさせる。
6本の棒がしっかり山笠台に固定されているか。それを知るには実際に舁いてみるのが一番。棒締めが済むと、作業をした当番町の若者が肩を入れて「え いっ!」とばかり持ち上げて走りだす。台の上には何も載っていないが、心は高揚するようで、「オイッサ!」「オイッサ!」の掛け声が口をついて出る。
6月27日から。お祭りの開始と同時に公開される飾り山笠が先行する。人形師が素山にのぼった若手らに人形類の据え付け位置を指示するが、「ま少し箱崎側に」「ちょっとだけ、姪浜寄りに」などと声をかける。右とか左とか言ったらまぎらわしいためで、地元なら誰もが知っている地名を用いる。
舁き山笠行事のない祭りの前半を飾り山笠と一緒に盛り上げる。子供山笠は現在、博多小、千代小、新天町にあって地域の児童らが参加。かわいい山笠舁き姿に拍手が起こる。子供用といっても大人の半分ほどの重さで、結構、重い。また、地元放送局が一般を対象に「子供山笠教室」を開催。締め込み、法被などを貸与して実際に山笠を舁かせて祭りを体感してもらう企画もある。
舁き山笠行事が始まる前、吉日を選んで櫛田神社境内に幕を張って行われる。南坊流振興会が世話人で、亭主側として博多祇園山笠振興会の正副会長や各流の総務が出席する。南坊流は福岡藩・黒田家に伝わる茶道の流派で、「舁き山笠」を「出陣」に見立ててのお茶会だ。難しい作法はない。グイッと飲み干せば「イ ザッ!」という気分に。運び役は一番山笠の当番町に属する子どもたちが務める。
日時は流によって異なるが、過去一年ほどに亡くなった流の功労者を追善供養する行事。例年、各流ごとに物故者の中から対象者を決めて行う。遺族が自宅前などに簡素な祭壇を設け、故人の写真や愛用した法被を安置する。そこへ舁き手が「オッショイ!」「オッショイ!」と山笠を舁き入れ、揺すりながら手拍子をとって「博多祝い唄」を歌う。「故人も山笠が好きやったけん、よろこんどるくさ」。香も焚くが、さらりとやってのけるのが博多流(りゅう)だ。
一番、三番といった奇数の山笠を「差し山」と言い、二番、四番といった偶数山笠を「堂山」と呼ぶ。
今は舁き山笠と飾り山笠の高さが抑えられていることもあって、その違いが分かりにくい。しかし、「差し山」は勇壮な人形を飾り、「堂山」は優美なものを飾るのが原則。そうして陰陽の調和をとった。
よく見ると、「差し山」の頂上には「大神宮」「櫛田宮」「祇園宮」(櫛田神社の三神)の神額が掲げられ、「堂山」は頂上にお堂の作り物を配置してあるから区別はつくのでは?
「櫛田社鑑」には「宝永5(1708)年春3月公命ありて一番、三番、五番を合戦山とし、二番、四番、六番を源氏模様などをつくらしめ給う」とある。これ以降、「差し山」「堂山」の形態が確立したようだ。
舁き山笠、飾り山笠を問わず、山笠には何を飾っているかを表現する、つまり、テーマを書いた標題が付いている。「牛若丸飛燕之誉」「弁慶五条橋之勲」といった具合に。
流全部の標題を書いたものを番付といい、文献上、最も古いのは寛文9(1669)年とされる。現在は三、五、七と奇数文字で表す約束になっているが、当時は明確ではなく、「衣笠合戦」「義経鈴の御崎にて貝取」などと偶数のものもある。また、今は流と人形師が「牛若丸でいこう」「弁慶も勇ましい」と協議して決め、標題は故事来歴に詳しいお寺の住職などに考えてもらうケースが多い。江戸時代には専門の絵師が下絵を二つ描き、藩と年行司に届けなければならなかったとい う。
なお、山笠は表を櫛田神社の方向に、それがどうしても無理なら東に向けて建てるのも習わしである。
追い山笠(7月15日払暁)が済んだ午前6時から櫛田神社の能舞台で行われる。ついさっきまで騒然としていた境内にのびやかな笛、鼓の音が漂い、能楽師が 謡曲に合わせて静かに舞う。荒ぶる神を鎮める重要な儀式で、明治30年代までは、七流のうち一流が山笠行事を休んで奉仕した。現在は神社総代会が担当。能愛好者が増えているのか、鑑賞する人も多くなった。