このお祭りの”舞台“となる櫛田神社の境内に建つ。追い山笠の終了とともに山笠は解くのが決まりであるが、この山笠は例外。祭り期間以外に来た観光客用に一年を通して公開される。毎日、記念撮影の人々でにぎわう。(博多区上川端町)
我不慚天地(われはてんちにはじず
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中野親一
時は戦国の世、上杉謙信は義の精神を旗印に越後の国を治めておりました。
樋口与六兼続(後の直江山城守兼続)は魚沼郡の坂戸の城下に生を受け、幼少の頃に上杉景勝の小姓として仕え、後に主従の枠を超えた信頼関係を築いていくのでした。
謙信公の養子となった景勝に付き従い、春日山城に入った兼続は生涯の精神の師となる上杉謙信と出会い、その義の精神を継承していくのでした。
謙信の死後、越後では景勝ともう一人の養子景虎との家督争い(御館の乱)が起こり、兼続の知略等により景勝方が勝利するのでした。
この時の功績により二十一歳という若さで家老となり、後に直江家を継ぎ上杉家を戦国の世の中で支えていく事となります。この後景勝の兼続への信頼は益々高 まり戦国時代では珍しい執政(君主に代わり政務全般を単独で執り行う職)となり越後での軍事・政治・経済にその手腕を発揮していく事と なります。
そのような中、上杉家は天下人たる豊臣秀吉と同盟を結ぶ事となり、また兼続自身は豊臣家の家臣で知略に優れ誠実な石田三成と長きにわたり交友を深めていくのでした。
この兼続と三成との友情は豊臣秀吉亡きあとも続き、関ヶ原の戦いまで続く事となります。
この飾り山笠は上杉謙信の遺志を受け継いだ景勝・兼続主従が義の心をもって石田三成と手を取り合い、徳川家康と天下を争う一場面である。
日本曙国譲之譚(にほんのあけぼのくにゆずりのたん
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中野親一
太古の昔、天照大御神は地上の神々によって国造りが進んでいる葦原中国(日本の事)を御子たる天忍穂耳命に治めさせようと考えられました。
しかし、天の浮橋より地上を眺めると神々は暴れ騒然としていました。
そこで、天照大御神は天の神々を集められいかにするかを協議されました。話し合いの末、地上で最も力のある大国主神を説得し、速やかに国譲りを行わせようと考えられました。
けれど、幾たびも使者を送られましたが国譲りは遅々として進みません。そこで武勇の誉れ高い建御雷神に天鳥船神を添えて使者として出雲の大国主神の所に遣わされました。
大国主神は国譲りの返事を二人の息子の神に任され、一人の八重言代主神は「私に異存はありません。」と譲る事を承諾され身を隠されました。しかし、もう一 方の建御名方神は 異を唱え建御雷神に力比べを挑まれました。が、勝負はたちまち付き敗れた建御名方神は信濃(長野県)の諏訪まで退かれ降参されました。
これにて国譲りが無事に終え、天忍穂耳命が降臨なされようとされている時に天津日高日子番能邇々芸命がお生まれになられたので、「この御子こそ葦原中国を治めるにふさわしい。」と言われ、この神を葦原中国に降ろされる事となりました。
この飾り山笠は天津日高日子番能邇々芸命が竺紫(九州)の日向(宮崎県)の高千穂の山に降臨される迄の物語であり、これより先日本の国を治められていく一場面であります。