このお祭りの”舞台“となる櫛田神社の境内に建つ。追い山笠の終了とともに山笠は解くのが決まりであるが、この山笠は例外。祭り期間以外に来た観光客用に 一年を通して公開される。毎日、記念撮影の人々でにぎわう。(博多区上川端町)
智将疾風関ヶ原(ちしょうしっぷうせきがはら
)
田中比呂志
豊臣秀吉の死後、慶長五年(一六〇〇年)に徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が美濃国の関ヶ原で開戦しました。
東軍は東海道と中山道に分かれて進軍しましたが、西軍の真田昌幸と幸村親子は上田城に立て籠もり、中山道を進んできた徳川秀忠の大軍勢を迎え撃ちました。
真田軍の戦略は秀忠軍を足止めをして、主戦場関ヶ原の合戦に遅刻させることでした。上田城に近づいた秀忠軍は、まず真田方に使者を立て、投降勧告をしまし たが、それに対し、真田軍は投降する気配を見せつつ、時間稼ぎに徹しました。秀忠は数日間を空しく費やした上、さらに挑発をしてくる真田軍に激怒し上田城 攻略を決意しました。このとき、秀忠の側近が上田城を黙殺して西軍との主戦場に急ぐべきだと進言するのですが、冷静さを失った秀忠の決断を覆すことは出来 ませんでした。
この戦いで真田軍は兵力で圧倒する秀忠軍を知略で巧みに翻弄攪乱して上田城攻略を断念させた上、関ヶ原への遅参作戦に成功するのでした。
関ヶ原の戦いの後も徳川と豊臣の全面対決は続き、大阪夏・冬の陣が開戦しますが、夏の陣で真田幸村は徳川方の猛攻にあい多くの古参武将が倒れるなか、寡兵を持って徳川家康本陣まで攻め込み、家康を後一歩のところまで追いつめたのでした。
この飾り山笠は真田幸村が、関ヶ原の戦いをはじめ数々の戦局不利のなか、知略をもって勇猛果敢に敵陣に挑む場面であります。
神話天之岩戸譚(しんわあまのいわとのたん
)
田中勇
神々が住む世界である高天原を治める天照大御神は、弟の須佐之男命が起こした数々の横暴に怒り、天の岩戸という洞窟の中に閉じ籠もってしまいました。すると高天原と地上の世界は真っ暗になり、あらゆる災いが起こりました。
この有様を見て困った八百万の神々は、天の安河原に集まって相談し、一番知恵のある思金神に良い方法を考えてもらうことにしました。
そこで思金神は、玉祖命に大きな勾玉を連ねた玉飾りを作らせ、それを大きな鏡と一緒に榊に取り付け、岩戸の前に飾り立てました。
そして岩戸の前に神々を集め、尊い神を称える儀式を行い、天宇受売命が裸同前の姿になりながら踊りました。その踊る姿がとても可笑しく、神々が一斉に笑いました。
外の様子があまりに賑やかなので不思議に思った天照大御神は、岩戸を少しだけ開いて外の様子を伺い「私がここに籠もって世界は暗闇になってしまったはずなのに、なぜ皆楽しそうにしているのか」と尋ねられました。すると天宇受売命が「あなたさまよりも尊い神がおいでになられましたので、皆喜んでいるのです」 と答えました。そのとき鏡に映った自分の姿をその尊い神だと勘違いした天照大御神は、もっとよく見ようと岩戸から少し身を出して覗き込んだとき、岩戸の脇に隠れていた天手力雄神が天照大御神の手を取って外に連れ出しました。
その瞬間暗闇に包まれていた世界は目映い光に照らされ、災いを鎮めることができたのです。
この飾り山笠は、日本神話の一つである「天の岩戸隠れ」を表したものであり、神々が協力して天照大御神という大切な光を取り戻そうとしている一場面であります。