黒田決戦石垣原(くろだけっせんいしがきばる
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置鮎 正弘
九州における関ヶ原合戦ともいえる石垣原合戦 黒田官兵衛孝高(如水)は家督を長政に譲り九州・豊前国中津城にて隠居していたが、上方で関ヶ原合戦が行われようとする報を受けるやただちに挙兵し、九州平定に動きだし、まずは小大名が多く配されている豊後を抑えて自領の背後を固めようと考えた。しかしそこへ朝鮮の役にて敵前逃亡したため秀吉の怒りを買い周防国(山口県)に改易されていた大友宗麟の子、豊後国の旧主大友吉統が旧領奪回に燃え、家の再興を賭して西軍として挙兵し、関ヶ原合戦の二日前に当たる慶長五(千六百)年九月十三日、豊後石垣原(現大分県別府市)において黒田官兵衛孝高は実相寺に、義統は立石に陣を敷き、ここに広がる「石垣原」にて七度に渡り戦ったと言われる。この合戦で、井上周防之房は、旧知の間柄であった敵の主将吉弘加兵衛統幸と槍を合わせ討ち取り、如水の勝利に貢献した。
呑取名槍日本号(のみとるめいそうにほんごう
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置鮎 正弘
黒田長政の遣いで、豊臣秀吉の家来である福島正則のもとへ出た母里太兵衛友信に、正則は大盃になみなみと酒を注ぎ、太兵衛に勧めた。 断る太兵衛に対して、飲めば望みの品をやると言ったため、見事その酒を飲み干し、正則が秀吉から頂いたという名槍日本号を貰い受けた。母里太兵衛友信の主 君黒田長政は秀吉の没後、石田三成と対立するようになり、徳川家康に接近、千六百年に起きた関ヶ原合戦では、豊臣系大名の事前の説得工作や合戦での活躍に より筑前国ほぼ一国を与えられ、福岡市東区の名島城に入った後、福崎という新たな城下町を築き、先祖発祥の地にちなんで福岡城と名付けた。名槍日本号は、 その後慶長の役で太兵衛の窮地を救った、母里太兵衛友信と並び称される豪傑後藤又兵衛のもとに渡り、現在は福岡市博物館に収蔵されています。