素神宝剣之奇瑞(ソシンホウケンノキズイ)
川崎 修一
太古の昔、高天原を追われた素戔嗚尊は出雲国(島根県)の斐伊川の上流の鳥髪という所にお降りになられました。
すると、どうした事か老夫婦が娘を挟んで泣いていたのです。名前をお尋ねになると『私は国つ神の脚摩乳、妻は手摩乳と申します。娘の名は奇稲田姫と申します。』続いて泣いてる訳をお尋ねになると『私には八人の娘がいたのですが、毎年八岐大蛇という怪物が来て一人ずつ食べてしまうのです。残るはこの子一人となってしましました。』と答えられました。その姿形をお尋ねになると、『その目はほおずきのように赤く、頭は八つ、大きさは八つの谷、八つの峰に渡り、その腹はことごとく血がにじんでおります。』と申し上げました。
そこで素戔嗚尊は『あなたの娘を私にくれないか。』とお尋ねになり、脚摩乳は『畏れ多いことですが、あなた様のお名前は。』と申し上げると、『私は天照大神の弟で、今天より降りてきた。)と自らの身分を明らかになさいました。
それを聞いた脚摩乳・手摩乳のお二人は素戔嗚尊に奇稲田姫を差し上げられ、怪物退治の準備をされるよう言われました。
お二人には『よく醸した酒を用意し、垣根を巡らせ八つの穴をあけ、穴ごとに器をおき強い酒を満たして待ちなさい。』と。準備が整い待っていると聞いたとおりの姿をした八岐大蛇が現れたのです。
八岐大蛇は八つの器に頭を突っ込んで、がぶがぶと強い酒を飲み。しばらくすると酒が廻ってその場で
眠ってしまいました。
そこで素戔嗚尊は腰に佩いていた十握剣を抜いて大蛇を退治されました。
その時に何か堅いものに当たって十握剣の刃が欠けてしまいました。
怪しいと思いご覧になると蛇の尾からそれはそれは神々しい剣が出てきました。天叢雲剣(草薙剣)です。素戔嗚尊は高天原にいらっしゃる天照大神にこのことを報告され献上されました。この剣が後の皇位の印『三種の神器』の一つになります。
戦いが終わると素戔嗚尊は奇稲田姫と結婚のための場所をお探しになりました。そこで出雲国の須賀という所にお着きになって『ここに来て自分の心はすがすがしい。』と仰せになってその地に宮殿を作りお住みになられました。
この飾り山は素戔嗚尊が悪事を働く八岐大蛇を成敗され、『三種の神器』である天叢雲剣(草薙剣)を得られる一場面です。
威風長政決戦功(イフウナガマサケッセンノイサオシ)
室井 聖太郎
慶長五年七月徳川家康は、再三の上洛命令に応じなかった豊臣方の上杉景勝討つために、『会津攻め』を行いました。
これに対して、豊臣方の石田光成は毛利輝元、大谷吉継達と共に徳川方に挙兵しました。会津に向け出兵中の下野の国小山に於いてこれを知った家康はすぐさま家臣を集め、『小山評定』を開き、清洲へ向けて転戦するのでした。
その後、徳川率いる東軍と豊臣率いる西軍は、伊勢、美濃に於ける数々の合戦を経て、木曽川を挟んで対峙します。兵を分散していた豊臣方に対し、徳川方は兵力を集中して木曽川を突破しました。
豊臣方の織田信秀は岐阜城に籠城しますが、徳川方の圧倒的な兵力に降伏するのでした。ここで家康は大阪に向け出陣しました。これを受けて三成は徳川方を関ヶ原で迎え討つ事を決めて、関ヶ原に向けて出陣しました。これに応じて家康も関ヶ原へ向けて進軍し、いよいよ両軍は、関ヶ原で激突する事になります。
慶長五年九月十五日、早朝から霧が立ちこめる中、先に到着した西軍は高所に主な武将を配置し、鶴翼の陣を敷いて東軍を待ち構えます。既に先陣が決まっていた福島正則を、井伊直政が抜け駆けして。決戦の火蓋が切って落とされました。戦いでは黒田長政が鉄砲隊を率いて西軍に猛攻を加えて、素晴らしい戦果を挙げ、本田忠勝が旧豊臣方の武将の監視役に当たり、睨みを効かす中、東西両軍一歩も譲らず一進一退を繰り返しました。一方で、長政は光成側の家臣、小早川秀秋、吉川広家達の裏切りを誘い、豊臣方の吉継の軍が壊滅的な状態となるや、家康は三万の精鋭に総攻撃の命令を出しました。光成は次々に味方の将を失い孤立する中、最後まで奮戦しますが、力及ばず落ち延びていきました。
『会津攻め』に端を発し、全国の大名に波及し、天下を二分した徳川、豊臣の覇権争いは、この決戦を境に終局へと向かいます。
この飾り山笠は、関ヶ原の合戦に於いて、武勇に長け、智略に優れた黒田長政の活躍する名場面です。