男西郷どん(おとこせごどん)
生野 四郎
『西郷隆盛』(吉之助)(さいごう・たかもり〈きちのすけ〉1828~1877)
西郷隆盛は1828年(文政十年)薩摩・島津家の下級武士の家に生まれた。当時の薩摩藩には、『郷中教育』という独特な教育制度がありました。『方限』とよばれる居所ごとに年長者が年少者の面倒を見る倫理観に優れ、実践に裏付けされたもので、薩摩隼人の教育の根幹を成していました。このような独自な教育制度のもと、西郷は指導者としての基礎を築いていきます。近隣には後に明治の元勲となる二歳年下の大久保利通(庄助)も生まれています。1844年(弘化元年)、西郷は十六才で藩の郡方の補佐を拝命。藩内の田畑の実際の石高を計るうちに農民の窮状を目の当たりにします。藩の御家騒動に巻き込まれたこともあり、藩政への上申をきっかけに、二十八代藩主・島津斉彬にその才を見出されます。その後、庭方役として仕えるようになり、幕末の江戸、京都に活躍の場を広げます。
やがて、命により斉彬の養女・篤姫を徳川家十三代将軍・家定に嫁がせるべく、島津家と縁の深い天皇家縁戚の五摂家筆頭・近衛家の支援を得ながら、これを成し遂げます。篤姫の工作で十四代将軍に一橋慶喜を擁立する下準備でした。しかし、この件は紀州徳川家の慶福(家茂)擁立に執念を燃やす南紀派(井伊直弼派)の勝利となりました。巻き返しを図るべく上洛を計画していた斉彬がその直前に急死、西郷は深い失望感に苛まれます。薩摩藩の藩主は、斉彬の遺言により養嗣子(弟・久光の子)忠義(茂久)に決まります。将軍決定で勢いに乗る幕府の尊王攘夷派への捜査・探索が厳しくなると、西郷は斉彬亡き後の心の支えでもあった、尊皇派の僧・月照と共に錦江湾(鹿児島湾)に身を投げます。西郷は奇跡的に蘇生しましたが、月照は絶命しました。藩は幕府の追求を逃れるため、西郷に奄美大島に渡り潜居するよう命じます。時に西郷三十一歳。ここから受難の日々が始まります。
奄美大島では、藩の過酷な農民搾取に心を痛め、古い因習からの解放を行うなど、島民からも慕われました。1862年(文久二年)、再び藩に呼び戻され、藩主の後見である父・久光の上洛に際しすることになります。しかし、久光から、西郷自身が攘夷の旗を立てて天皇を擁立しようとする過激派に担がれるのを恐れて譴責され、お互いに心が通わぬまま沖永良部島に流されることになりました。二度の島送りの間に、『生麦事件』これに端を発した『薩英戦争』と薩摩藩が英国と関係した国際事件が立て続けに起こります。西郷の帰藩を頑なに拒絶していた藩父・久光も、このままでは時代の流れに取り残されると悟り、西郷の表舞台への復帰を認めます。1864年(元治元年)のことでした。
天皇家と幕府の融に尽力した翌年、西郷は岩山 糸(糸子)を嫁に迎えます。再婚同士でしたが、物腰柔らかく貧乏を苦にせず、西郷の一番の理解者となりました。二人とも遠慮せずに正しいと思うことを率直に述べる性格で、そこがふたりを引き寄せたといえるかもしれません。西郷亡き後も西南戦争で犠牲者になった家族を慰問し、生涯にわたり気にかけていたと伝えられます。西郷は、自分が思う世の中をつくるため東西走するなかで、家族を守る糸に全幅の信頼を寄せながら、盟友・大久保利通とともに稀代の革命家として、新たな国づくりという大きな山を駆け上っていったのです。
ゴリパラ見聞録(ごりぱらけんぶんろく)
田中 勇
テレビ西日本で毎週土曜日の0時55分から放送中の旅バラエティ番組『ゴリパラ見聞録』。平成二十三年四月からから放送が開始され、熊本出身のピン芸人『ゴリけん』とお笑いコンビ『パラシュート部隊(矢野ぺぺ、斎藤 優)の三人が人間性丸出しで旅をするドキュメンタリーバラエティ番組で、視聴者のために、日本全国どこへでも代わりに出向き、お望みの写真を撮ってまいります。行く先々でのトラブルや名物、名所、親切な方々との出会いやふれあいを通し、実際に行ったからこそ分かる『何か』をお伝えします。
総務:熊本 章一