日本武尊征熊襲(やまとたけるのみことくまそをうつ)
川崎 修一景行天皇の息子である小碓尊は、父の命を受けて朝廷に従わない西方の豪族である熊襲(現熊本県人吉市周辺から現鹿児島県霧島市周辺)の魁師(首長の意)・川上梟帥の征討に向かいました。
その時、小碓尊は『わたしは弓を射るのが上手い人を得て、一緒に行きたいと思っている。どこかに弓を射るのが上手い人はいないものか。』と言いました。するとある人が、『美濃国(現岐阜県南部)に弓を射るのが上手い人がいます。その人の名を弟彦公と言います。』と答えました。小碓尊に呼び寄せられた弟彦公は小碓尊に従い、共に熊襲に向かいました。
小碓尊は叔母の倭姫命から借りた衣装で女装し、川上梟帥の屋敷へ潜入しました。
屋敷で行われる宴の席で、女装した小碓尊を気に入った川上梟帥は、小碓尊を傍らに呼び、酒の相手をさせました。川上梟帥の酔いがまわったところで小碓尊は懐から剣を取り出し、川上梟帥の胸を突き刺しました。しかし川上梟帥は息絶えることなく、どうか話を聞いてほしいと懇願しました。
川上梟帥は『わたしはこの国で一番強かったので川上梟帥(タケルは勇猛な者の意)と呼ばれたが、あなたほど強い人は初めてです。どうかこれからは日本武尊と御名乗りください。)と言いました。
これを承知した小碓尊は川上梟帥を討ち取り、熊襲征討を終えました。この飾り山笠は日本武尊の名前の由来となる熊襲征討の一場面です。
如水九州平定功(じょすいきゅうしゅうへいていのいさおし)
室井 聖太郎
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の没後、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍に天下が分かれ、美濃国の関ケ原にて両軍が激突します。
慶長五年(一六〇〇年)九月九日、黒田如水は中津城より九州の西軍に組する諸大名の征伐に向かいました。しかしながら黒田家の主力は当主の長政とともに家康の元におり、如水には二百騎程度の寡兵しかありませんでした。しかも九州には小早川、龍造寺、鍋島、立花、秋月、島津・・・などといった屈強な大名等がひしめいており戦いは困難かと思われました。
それでも如水は出陣し、歴戦の手腕を遺憾無く発揮します。城攻めでは籠城している敵に討ち死にの覚悟を感じると矛を交えず周辺の支城を落とし、再び城を包囲し降伏させるなど勝利を重ねます。知略はもとより如水の節義の篤さは天下に轟いており、かの猛将、立花宗茂も如水相手ならと軍門に降るなど、怒涛の快進撃で気づけば万を超える兵力となり九州を席巻しました。
日本一の軍師で戦上手でありばがらむやみに血を流す争いを嫌い、常に戦乱終息の為に戦う如水らしい戦ぶりであります。
関ケ原の戦いはわずか一日で決着し、その旨が伝わると如水の九州平定も終わりを迎えましたが、戦いが長引けば時の世も変わっていたのでなないかと一説には言われています。
この飾り山笠は、信長、秀吉に仕え天下一の知恵者と謳われた如水が優れた知略と篤い人望を駆使し、縦横無尽に九州平定を成す場面であります。