道一筋不謁二君(みちはひとすじ にくんにまみえず)
西川直樹
立花宗茂は、大友氏の重臣筑前国太宰府岩屋城主、高橋紹運の長子として生まれる。
同重臣であった香椎立花山城主、立花道雪に請われ、道雪の娘を妻にし、立花家に婿入りする。
天正十四年、九州制覇を目論んでいた薩摩の島津氏が、宗茂が護る立花城に攻め込んでくる。
約五万の兵力で攻め込んでくる島津軍に対し、立花城を護る弱冠二十歳の宗茂側の兵力は二千であった。宗茂は豊臣方の援軍が来るまで城を護り抜き、豊臣秀吉より「その忠義、鎮西一、その剛勇、また鎮西一」との感状を受ける。その後、秀吉の直臣となり、柳川に十三万二千石の大名となる。
関ヶ原の戦いが起ころうとするときに、徳川家康から恩賞を約束され、東軍に誘われていた宗茂だが、
「秀吉公の恩義を忘れて東軍に付くのなら、命を絶ったほうがよい」と家康の誘いを断ったと言われている。西軍が敗れたため、立花家は改易、所領を没収され宗茂は浪牢の身となる。その後、宗茂の器量をよく知っている徳川幕府より柳川に再び所領をいただくことになる。
関ヶ原の戦いで西軍についた大名で、旧所領に復活したのは立花宗茂のみである。
総務:三浦 鉄男