小野和泉守鎮幸(おのいずみのかみしげゆき)。立花道雪・宗茂の二代に渡り仕えた家臣で立花四天王の一人。豊臣秀吉から日本槍柱七本の筆頭と絶賛された。家老時代、収賄が常態化し守銭奴と揶揄されたが、後に財政が逼迫していた主家に、蓄えた賄賂に自らの資金を加え供出し、その窮地を救い周囲を驚嘆させた。関ケ原の戦いで立花家が西軍に与して敗れ、肥後・加藤家預かりとなった時は立花家家臣団をまとめ、宗茂が加藤家を辞した後は仕送りを続けた。当時、自ら武勇伝を語る事は無かったが立花家家臣を軽視する風潮が生じた際は、一転し酒席で戦傷を露わにし感状と照らし合わせ説明し加藤家家臣たちの毒気を抜く。併せ、「清正公の武勇伝を耳にするが、家臣たるもの主君を武勇伝となるような危険なめにあわせてはならない。少なくとも某はそうしてきた。」と家臣としての立ち居振る舞いを説いたという。忠義にして勇猛な郷土の誇る武将である。