慶長年間、黒田長政が福岡城を普請(工事)した際、関ケ原で西軍についた鍋島家を黒田長政が徳川家康に執り成して東軍につかせたことに感謝し、肥前佐賀藩の藩祖である鍋島直茂とその子で初代藩主の勝茂が、感謝の意として今の天神地区から福岡城に向かって堀を普請しました。それは「肥前堀」の名で知られ、今の福岡市役所の西側からソラリアプラザ一帯の場所にありました。那珂川から福岡城、その先の大濠に至る東西の濠の完成により都市の開発軸ができ、城下町福岡の発展の礎となりました。
その「肥前堀」は1910(明治43)年におこなわれた大博覧会「九州沖縄八県連合共進会」の会場設営の為に埋め戻され、それに合わせて開通した路面電車とともに街を大きく発展させるきっかけとなり、日本有数の近代都市福岡の始まりとなりました。
「肥前堀」の大普請は、今の天神地区の繁栄の大元である大事業として位置付けられる歴史事象です。
菅公西下創造多故事(かんこうのさいかおおくのこじをうむ)
西山 陽一
菅原道真公は宇多天皇に重用され、次の醍醐天皇の元では右大臣にまで上り詰めましたが、時の左大臣であった藤原時平の讒言により、延喜元(901)年1月に大宰府へ大宰権帥として左遷されることとなり、味酒安行など少人数の伴連れのみで冬の瀬戸路を西下して博多の港に辿り着きます。道真公の西下は各地にたくさんの伝承を遺し、その故事にちなんだ各地の天満宮が今でも各地で信仰を集めています。
かつてソラリアプラザにほど近い薬院新川(旧四十川)の畔の中央区今泉(旧庄村)には、道真公が川面に己の姿を眺めた故事による容見天満宮(又は四十川天神)がありました。慶長17(1612)年に福岡藩初代藩主・黒田長政が城下を造営する際に、現在の中央区天神一丁目に社を移し「水鏡天満宮」としました。福岡の中心地「天神」の地名は、この天満宮に由来します。
総務:児玉 泰士