【飾り山笠】十四番山笠 ソラリア

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表標題

黒田鍋島天神大普請(くろだなべしまてんじんびっぐばん)

人形師

置鮎 正弘  

内容説明

慶長年間、黒田(くろだ)長政(ながまさ)が福岡城を普請(ふしん)(工事)した際、関ケ原で西軍についた鍋島(なべしま)家を黒田長政が徳川(とくがわ)家康(いえやす)に執り成して東軍につかせたことに感謝し、肥前佐賀藩の藩祖である鍋島(なお)(しげ)とその子で初代藩主の(かつ)(しげ)が、感謝の意として今の天神地区から福岡城に向かって堀を普請しました。それは「肥前(ひぜん)(ぼり)」の名で知られ、今の福岡市役所の西側からソラリアプラザ一帯の場所にありました。那珂川から福岡城、その先の大濠に至る東西の濠の完成により都市の開発軸ができ、城下町福岡の発展の礎となりました。

その「肥前堀」は1910(明治43)年におこなわれた大博覧会「九州沖縄八県連合共進会」の会場設営の為に埋め戻され、それに合わせて開通した路面電車とともに街を大きく発展させるきっかけとなり、日本有数の近代都市福岡の始まりとなりました。

「肥前堀」の大普請は、今の天神地区の繁栄の大元である大事業として位置付けられる歴史事象です。
 

                                                                                       
見送り標題

菅公西下創造多故事(かんこうのさいかおおくのこじをうむ)

人形師

西山 陽一

内容説明

菅原(すがわらの)(みち)(ざね)公は宇多(うだ)天皇に重用され、次の醍醐(だいご)天皇の元では右大臣にまで上り詰めましたが、時の左大臣であった藤原(ふじわらの)時平(ときひら)讒言(ざんげん)により、延喜元(901)年1月に大宰府へ大宰(ごんの)(そち)として左遷(させん)されることとなり、(うま)(さけの)安行(やすゆき)など少人数の伴連れのみで冬の瀬戸路を西下して博多の港に辿り着きます。道真公の西下は各地にたくさんの伝承を遺し、その故事にちなんだ各地の天満宮が今でも各地で信仰を集めています。

かつてソラリアプラザにほど近い薬院(やくいん)新川(しんかわ)(旧四十川)の畔の中央区今泉(いまいずみ)(旧庄村)には、道真公が川面に己の姿を眺めた故事による(すがた)()天満宮(又は四十川天神)がありました。慶長17(1612)年に福岡藩初代藩主・黒田長政が城下を造営する際に、現在の中央区天神一丁目に社を移し「水鏡(すいきょう)天満宮」としました。福岡の中心地「天神」の地名は、この天満宮に由来します。

 


 総務:児玉 泰士

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