元暦二年(一一八五年)二月、源 義経は、四国屋島に陣をしいていた平家を背後から攻めたて、慌てた平家は船で海上に逃れ、陸の源氏と対陣することになります。
夕暮れになった頃両軍が兵を引きかけている時、沖から立派に飾った一艘の小舟が近づいてきました。見ると、優美な女性が日の丸を描いた扇を竿の先端にはさんで船べりに立って、陸に向って手招きしています。「この扇射落としてみよ。」という挑発です。
これを見た義経は、弓の名手那須与一を呼び寄せ、「あの扇を射て」と命じます。
与一は何度も辞退を申し入れましたが、聞き入れられず、意を決して馬を海に乗り入れました。扇の的までは四十間(約七十メートル)もあり、折から北風が激しく吹き荒れ、岸を打つ波も高く、船は揺り上げられ、揺り戻されているので、扇は少しも竿に止まらず動いています。沖には平家が一面に船を並べ、陸では源氏が馬を並べて見守っています。
与一は、目を閉じて「南無八幡大菩薩、とりわけ我が国の神々、日光権現、宇都宮の明神、那須の湯泉大明神、どうかあの扇の真ん中を射させてくれ給え。これを射損じるくらいならば、弓切り折り自害して、人に二度と顔を向けられず。無事大願を成し遂げこの私を下野国へ帰そうと思いならば、この矢外させ給うな。」と心に念じて目を見開いてみると、風は幾分弱まり扇の的も射やすくなっています。
与一が渾身の力で鏑矢を放つと、矢はうなりを立てて飛び放たれ、正確に扇の要から一寸(約三センチ)ほど離れたところを射切りました。鏑矢はそのまま飛んで海に落ちましたが、扇は空に舞い上がったのち、春風に一もみ、二もみもまれて海へさっと散り落ちたのです。紅色の扇は、夕日のように輝いて白波の上に漂い、浮き沈みしています。
源平両軍は、どっと歓声を上げて与一を褒め讃えたのでした。
この飾り山笠は「源平合戦 屋島の戦い」の名場面です。
鎮 大鯰要石(おおなまずしずめるかなめいし)
人形司 武平
近年わが国では、将来巨大地震が起こるといわれ、地震への関心が高まりをみせる中、震度六程度の地震が頻発しています。地震は人類の歴史において、再三猛威を振るってきました。地震から命と暮らしを衛ることは人類の切実な願いでした。一方で人類はそのような地震に対して様々な想像をめぐらせてきました。例えば、神々や悪魔の仕業としたり、気の流れの変化で起こるとしたり様々です。とりわけ、わが国においては、【大鯰が暴れると地震が起こる】という民間信仰が流行しました。 この民間信仰が一般的になったのは、安政二年十月二日に起こった【安政の大地震】以後に盛んに描かれた【鯰絵】の普及と、鹿島神宮と香取神宮に祀られた【要石】の信仰によるものとされています。【要石】については、次の通りです。鹿島神宮の【要石】は大鯰の頭を封じ、香取神宮の【要石】は大鯰の尻尾を封じて地震が起こらないようにしているといわれます。また江戸時代に流行した【鯰絵】には、次のような内容の説明が添えられています。
「神無月の月の名前が示すように、十月には日本各地の神様たちは、出雲へ集まって出雲以外の各地は神様が不在となります。その際、鹿島神宮の御祭神【武甕槌の神】と香取神宮の御祭神【経津主の神】は、恵比寿神【事代主の神】に留守中の【要石】を託して出雲に旅立ちました。その後、留守を預かる恵比寿神は、自身で釣った鯛を肴に、酒を飲み過ぎて酔っぱらってしまい、【要石】の抑えがきかなくなり、大地震が起こり、出雲から戻ってきた【武甕槌の神】と【経津主の神】に泣きながら許しを請いました。」
この【鯰絵】に添えられた説明から、この【鯰絵】には、長い歴史の中で、日本人が培ってきた神話や、地震に対する民間信仰などの特有の文化が随所に反映され、絵師は、当時の世相を、大地震という出来事を通して、風刺を込めて描こうとしていることがわかります。
この飾り山笠は、江戸時代に流行した【鯰絵】の名場面です。