【飾り山笠】 ソラリア

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ソラリア

 


表標題

天下決戦壇ノ浦てんかのけっせんだんのうら

人形師

置鮎正弘

内容説明

木曽義仲に京都を追われた平家一門は西へ西へと逃れ、一の谷、屋島と敗走。平知盛は関門海峡に浮かぶ彦島に背水の陣をしきました。平知盛は門司の田野浦に 船団を集め、源義経の陣は満珠・干珠島に船団を集めました。 「吾妻鏡」によると、その数、平家の船団500余隻、源氏は840余隻、彦島を本換地とする平知盛は得意の海上戦で挽回を狙いました。
初戦、平家は東流の潮流に乗り戦いを有利にしていましたが、昼近く潮流が西に変わり始めると接近戦となり、さらに源義経が平家軍の水子・舵取りを射させて 混乱させ、戦況は逆転。源氏が優勢になるにつれ、平家方から源氏へ裏切る者が相次ぎました。平家きっての武将、平敦経/能登守教経(のとのかみのりつね) は、源義経を討とうとして追いつめましたが、「八艘飛び」で味方の船に逃れ、果たせませんでした。 敗戦を覚悟した二位の尼は、源氏が奪還を狙う三種の神器を身に付け、「波の下にも都の候ふぞ」と8歳の安徳天皇を抱いて入水しました。勝敗が付いたのは午 後四時、主だった武将は一門の最後を見届けると次々に入水し、平知盛も「見るべき程の事は見つ」と海中に身を投じましたが平家の総帥、平宗盛親子は捕虜と なり戦いは終わりました。関門海峡にはおびただしい数の平家の赤い旗印が漂うばかり。治承四年(一一八〇年)、源頼朝が平家打倒の兵を挙げて以来、五年に 及んだ両軍の戦いは寿永四年(一一八五年)三月二十四日、壇ノ浦で決着しました。栄華を極めた平清盛の一族は歴史上からその姿を消し、再び表舞台に立つこ とはありませんでした。
 





見送り標題

剣客相撃巌流島けんきゃくあいうつがんりゅうじま

人形師

置鮎正弘

内容説明

宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘したのは慶長十七年(一六一二年)四月十三日のこと。約束の時から遅れること二時間、小次郎は待ち疲れていました。 武蔵は櫂の木刀をひっさげ素足で船から降り立ちました。小次郎はいらだって刀を抜き放ち、鞘を海中に投げ捨てました。小次郎は武蔵が近づくとともに、刀を 真っ向に振りたて、眉間めがけて打ち下ろしました。同時に武蔵も櫂の木刀を打つと、その木刀が小次郎の額にあたり、たちどころに倒れました。小次郎の打っ た刀はその切っ先が武蔵の鉢巻の結び目に触れ、鉢巻は二つになって落ちました。武蔵は倒れた小次郎を見つめ、また木刀を振り上げて打とうとする瞬間、小次 郎が刀を横にはらい、武蔵の袴の裾を三寸ばかり切り裂きました。しかし、武蔵のうち下ろした木刀は、小次郎の脇腹、横骨を打ち折りました。小次郎は気絶 し、口鼻から血を流しました。武蔵は手を小次郎の口鼻にあてがい、死活をうかがい一礼して立ち去りました。小次郎の唇に微かな笑みが浮かびました。そし て、まだ見開いたままの小次郎の両目から、急に、生きている光が失せていきました。激しい声を上げて、新之丞が泣き出しました。ギラギラと光る海を武蔵の 小舟は東へ向かって、流を変えた潮に乗り、下関の方へひた走るように影を小さくしていきました。
 




 

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