源平扇的誉(げんぺいおうぎのまとのほまれ)
三宅 隆
文治元年(一一八五年)二月十八日 一の谷の合戦に敗れた平家軍は、四国の屋島に逃れた。そして、この地に根拠地をおいて、戦力のたて直しをしていたが、 源氏軍は四国の阿波に上陸し、陸路をとって進軍し、平家軍の陣のある屋島を襲撃した。海からの攻撃を予想していたのである。
平家軍は一の谷と同じく、又もや意表をつかれて舟で海へ逃げた。海戦に長けた平家軍の船に、源氏軍は陸から矢を射掛ける。平家方からも、矢を打ってくるが埒が明かない。そんなことが続く中で、平家方から一艘の船が近づき立ち姿の女性が居り、竿にくくられた扇が立てられる。源氏側は゛これを射てみよ゛という 謎かけと察した。義経は源氏方の弓の名手那須与一に命じ扇を射させる。海中に馬を乗り入れた与一が放った矢は、見事に扇を射抜き船ばたを叩いて誉める平家軍、箙を叩いて喜ぶ源氏軍であった。
決戦のぼうの城(けっせんのぼうのしろ)
中村 信喬
天正十八年(一六九六年)武州忍城にて石田治部少輔三成、大谷刑部少輔吉継、長東大蔵大輔正家らが秀吉の命により城を水攻めにする戦でそれを迎え撃つ物語である。
籠城するのは武州北部に位置する成田氏の居城(忍城)、城主成田氏長は小田原北条に加勢し留守、護るは上代成田長親、家老正木丹波利英ら三千の百姓、女、子供を集めた兵である。
対する石田軍は二万、正木丹波、酒巻勒負らの奇襲作戦により翻弄する。人々の心を打つ歴史上の一戦である。