合戦石垣原(かっせんいしがきばる
)
三宅 隆
黒田如水は軍師として秀吉に仕え、その功績により豊前豊後六郡を与えられ中津城を築城した。石垣原の合戦は一六〇〇年九月、元豊後の国主だった大友の義総 が旧領回復を目指して戦う。(大友宗麟の息子)大友義総は、秀吉に不始末をとがめられ、所領を没収され、その後、毛利輝元に預けられ、蟄居の身であった。 西軍の名目上の大将、輝元は義総に九州の東軍方の勢力を軌切り崩す様要請し、その見返りとして豊後の国の返還を約束した。義総は豊後に帰国し、大友の旧臣 と糾合して、東軍方の如水の前に立ちはだかった。如水は義総に対し、東軍に味方するように説得を試みたが、出来なかったので大友勢との対決を覚悟した。石 垣原は、大友義総が本陣をおいた「立石」と黒田如水の布陣した「実相寺山」との間に広がるなだらかな傾斜地で戦いを繰り広げた。開戦当初は大友勢は大いに 善戦する。しかし勢力の差は明らかで、主要な武将が次々と討ち死にし、黒田勢の重臣は大友勢を滅ぼす事を如水に進言したが、如水は大友家に対し私怨はない し、敵陣に使者を出し義総はその使いの道を通して降伏を申し出た。
関ヶ原の合戦(せきがはらのかっせん
)
中村 信喬
慶長五年(千六百年)九月徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍によって美濃国関ヶ原で行われた「天下分け目の戦い」。慶長三年(一五九八年)豊 臣秀吉が死ぬと石田三成は五大老・五奉行の制度を設けて 家康に対抗させようとした。益々対立が深まり、かねてより挙兵の機を伺っていた三成はこの機をとらえ軍を発した。東西両軍が関ヶ原にて激突。黒田長政の攻 略と黒田軍の活躍により吉川・小早川の裏切り、島左近、石田三成を追い詰めた。九州博多の縁深い福島正則、加藤清正をも飾山に登場させ臨場感有る合戦の場 面とした。