報文武秀小松君(ぶんぶしゅうなるこまつのきみにほうず)
西川直樹
平重盛公(1137~1179)は、『平氏に非ざる者は、人に非ざるなり』と権勢を誇っていた平氏の棟梁平清盛の長男で、性質温厚にて武勇の人と伝えられ、保元・平治の乱の功にて朝廷に重んじられ、従二位内大臣(後に正二位)と人臣位を極め、通称小松内府と呼ばれている。(小松とは重盛公が居を構えた六波羅小松第からによる)
時に、父清盛と後白河上皇(後法王)の関係は悪化し、武門の総領として、また朝廷の臣として、重盛公はその和解に苦慮し、日本外史を著した頼山陽の『欲忠則不孝、欲孝則不忠』の名分は、よくその心境を表していると言われています。
博多においては、安政年間、重盛公が宗国への使いとして博多の人を重用し、と同時に博多の町にも大きな恩恵を施し、その報恩として国の無形文化財に指定されている『博多松囃子』行事が始まったと伝えられ、今なお五月三、四日の『博多どんたく』の源流として博多の氏子によって奉仕されています。
総務:西村 秀夫