十数か町(旧町)を束ねた組織の呼称。
今では博多祇園山笠や博多松囃子といったお祭りで耳にするだけであるが、江戸時代を通して日常生活に密着した自治組織だった。現在の校区自治連合会に相当するといえるのではないか。
大陸貿易で栄えた博多は戦国時代、せめぎ合う大名、豪族の争奪の場となり、兵火に遭って焼け野原と化した。天正十五(一五八七)年、その復興を命じたのが太閤秀吉で、「太閤町割り」あるいは「博多町割り」と呼ばれる。
当時も奇数の七は縁起がいいとされ、流も七つと決められた。
(「七流」のほか「七小路」「七堂」「七番」といった言い方もある)現在も「七流」であるが、往時の二つ流が取りやめ、代わって戦後に生まれた二つが加わって多少異なる。
「流」という呼称の起源について福岡藩祖・黒田官兵衛(如水)が若い時代に家老として仕えた播磨・御着(小寺氏、姫路市)地方ではため池を流と呼ぶそうで、官兵衛が名づけたのではないか、との説もある。
一方で、小川や旗の数える単位として「流(ながれ)」という言い方があり、道路を中心に長く延びた町の集合体を小川などに見立ててそう呼んだのではないか、との考えも捨てがたい。