「川中島の戦い」は、熾烈を極めた永禄4年(1561)の八幡原の激戦が広く知られています。実際には北信四郡(北信濃の高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡)を戦場にして12年、5度にわたる長い戦いでした。
戦いの理由については諸説ありますが、川中島は古くから人口が密集する肥沃な地域で、交通の要衝にもあたり、鎌倉時代からしばしば合戦の舞台となっていました。それは大将が大軍を率いて采配し、兵馬をかけさせる適度な平地が広がっていたからともいわれます。武田信玄は、この要衝の地を奪い信濃全域の掌握をはかりました。これに対し、上杉謙信は、北信濃の武士たちに請われて、義侠心から川中島に出兵します。しかし、寺社までもわがものにしていく信玄の横暴さに謙信は我慢がならず、次第に強い対抗心を抱いて、自国越後までその悪行をおよばせまいと、本気になって信玄に戦いを挑んでいったとも考えられます。
(解説文協力:(公財)ながの観光コンベンションビューロー)
風雲戦国世到来(ふううんせん ごくのよとうらい)
生野 四郎
戦国時代に活躍した若き武将達(今川義元、北条氏康、上杉謙信、武田信玄、織田信長)を題材にとりあげました。
総務:山本 成嗣