【飾り山笠】三番山笠 中洲流

<<飾り山笠紹介
                                                                                            
表標題

奇襲桶狭間(きしゅうおけはざま)

人形師

溝口 堂央

内容説明
永禄三年五月十九日(一五六〇年六月十二日)織田信長軍と今川義元軍との合戦東海の覇者今川義元が上洛の足がかりとして尾張の織田領内に侵攻今川軍(二万五千)は順調に数々の戦い勝利し大いに悦び桶狭間で休息をとっていた。昼すぎ視界を妨げる程の豪雨が降り織田軍(一千)はこれに乗じて手薄な義元軍に奇襲をかけた。油断していた今川軍は混乱し逃走。今川義元は自ら太刀を抜いて応戦したが、毛利新介に討ち取られた。大将を失った今川軍は敗走し不利といわれた戦を征し天下に織田信長の名が轟いた合戦であった。
 
 

                                                                                       
見送り標題

能登等伯天賦才(のとのとうはくてんぶのさい)

人形師

中村 弘峰

内容説明
戦乱の世に生まれ、幾多の困難に見舞われながらも自らの手によって天下一の絵師へと登り詰めた長谷川等伯(一五三九~一六一〇)。現在の石川県七尾市に生まれた長谷川等伯は、はじめは春信(はるのぶ)と名乗り、主に仏画を描いて活躍しました。やがて三十代で京に上ると仏画、肖像画、山水花鳥画などさまざまな題材に取り組み、時に繊細に時に大胆に筆を走らせ時の関白豊臣秀吉、千利休らに重用されて時代の龍児となりました。
また同時代に安土城や大阪城の障壁画を描いた稀代の天才、狩野永徳というライバルの存在も等伯の人生に大きな影響を与えました。
その後、水墨画の最高峰と称えられる国宝「松林図屏風」を描き、七十二歳で没するまでに描き続けた長谷川等伯の人生は現代に生きる私たちにも勇気と希望を与えてくれます。
今年の一月一日に起きた能登半島地震による被災地の復興はまだ叶っていませんが、能登の生んだ天才に焦点を当て遠く博多の地から被災地に対し微力ながらエールを送る思いも込めて飾り山笠を制作、奉納させていただく所存です。


総務:西村 守也

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