古戦場として名高い川中島は長野県長野市の犀川と千曲川が出会う肥沃な低地帯にあり、甲斐を治める武田信玄(武田晴信)と越後の上杉謙信(上杉景虎)が北信濃の支配権を巡り、五度雌雄を争う戦いがおこなわれました。
時は戦国時代永禄四年(1561)九月十日。武田軍二万、上杉軍一万三千が川中島の八幡原で激突。明け方の霧に乗じた上杉方の奇襲に武田方は苦戦を強いられ、武田家軍師の山本勘助が闘死するほどの激戦となりました。上杉謙信は武田本陣が手薄となったと見るや信玄めがけて只一騎、隼の如く駆け寄り、馬上より鋭く太刀を浴びせました。不意を突かれた信玄は軍配で受けましたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負ったとされています。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七箇所もあったといわれ、このためこの二人の仕合の場が「三太刀七太刀(みたちななたち)」の跡といわれています。この窮地に信玄の家臣原大隅守昌清は二人の間に割入り、槍で馬上の信玄を突きましたが、槍先は謙信をかすめ馬の前足を打ちました。馬は驚いて跳ね上がり駆け出したため信玄は九死に一生を得ることになりました。
毘沙門天を信奉し関東管領の職を全うしようとする正義感の強い謙信と、自国の版図を広げんとする信玄の2台巨頭の直接対決は戦国の名勝負として名高く、博多祇園山笠においても幾度も取り上げられて来た人気の題目といえます。
山崎の地は摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の国境にあり、戦国時代にあっては京の都を守る要所でありました。天正10年(1582年)6月この地において、本能寺で織田信長を討ち果たした明智光秀軍と、備中高松城を水攻め中のところ、「中国大返し」と言われる岡山から京都までの200kmの道のりを駆け戻り急行した羽柴秀吉軍とが天下を分かつ合戦をおこないました。
羽柴軍は中国地方からの転戦の間に摂津の武将中川清秀や高山右近を、その後信長の遺臣の神戸信孝(織田信孝)や丹羽長秀らを取り込み、最終的に山崎に着陣した時には2万を超えていました。一方の明智軍は頼りの細川藤孝・忠興父子や筒井順慶などの援軍を得られず、子飼いの斎藤利三、松田政近、津田信春ら有力武将を主力とする陣容で羽柴軍とは2倍から3倍の兵力差があったとされます。この戦に敗れた明智光秀は居城である近江坂本城を目指し落ち延びるものの、小栗栖(京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)の藪で落ち武者狩りに遭い絶命し、十二日間の天下は幕を下したとされています。
京都への入口にあった天王山を先に押さえた羽柴軍がこの大戦に勝利したため、「天王山」の名は雌雄を決する勝負の代名詞となりました。羽柴秀吉はこの後の清洲会議を経て信長の後継者としての地位を固め、天下統一を成し遂げて戦国の世を終わらせました。
天王山は新大阪から京都に至る新幹線の車窓からサントリーウィスキー山崎蒸留所の背後に眺めることが出来ます。「山崎の合戦」は秀吉の出世一代記である『太閤記』にも描かれていますが、山笠としては珍しい題目といえます。