【飾り山笠】 二番山笠 中洲流

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表標題

智略真田勇戦誉(チリャクサナダユウセンノホマレ)
                                  
人形師

三宅 隆

内容説明

関ヶ原合戦の後、政治の主導権を握った徳川家康は慶長八年(1603年)江戸に幕府を開いて諸大名を従え、豊臣氏にも臣下の礼を尽くす事を迫った。秀頼の生母淀君らはこれに強く反発。大阪城に武器、弾薬、食料を蓄え多くの牢人を集め、対抗の構えを見せた。家康が露骨に戦争を挑発したのが有名な『方広寺鐘銘事件』で、片桐旦元の和平工作も空しく、慶長十九年十一月十五日、ついに戦端が開かれた。世にいう『大坂冬の陣』である。
この冬の陣における真田丸の攻防戦は幸村流の軍略、戦法の極致をいくものだったのである。
戦いは大阪城郭外の砦の攻防戦を中心としたが、目覚しかったのは天王寺口の出城『真田丸』における真田幸村の采配で、城壁に迫る徳川軍の井伊、前田らの大軍を空堀に誘い込み一斉射撃で大混乱に陥れ大きな損害を与えた。
幸村の智略、戦術は続く『夏の陣』でも遺憾なく発揮され、茶臼山の戦いで、一時は家康に死を覚悟させる程の果敢な攻撃を試みたが、壮烈な最後を遂げ、後世に『真田日本一の兵』の名を残した。
 


 

見送り標題

一休知恵競之妙(イッキュウチエクラベノミョウ)
                  
人形師

中村 信喬

内容説明

室町時代の臨済宗の僧、一休宗純の事、頓智で有名であった。江戸時代に『一休咄』が作られ、その中の一つの話である。室町時代の足利義満が一休に出した問題の一つ『屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治して欲しい』と義満が訴えとところ一休は『では捕まえますから虎を屏風から出してください』と切り返し義満を感服させた。一話からの場面。

 
総務:德安 隆

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