意凛々而傾剛直(いはりんりんとしてごうちょくにかぶく)
白水 英章
戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、異風(いふう)を好み、常識を逸脱(いつだつ)した派手な身なりで「傾(かぶ)く」社会風潮が流行していた。現代 の「歌舞伎(かぶき)」は、この「傾奇者(かぶきもの)」が、その源流となっている。戦国の世を、当代きっての「傾奇者(かぶきもの)」として生きた漢 (おとこ)が、戦国武将の「織田信長」や「前田利家」と並ぶ「前田慶次」である。
「慶次」は前田利家の甥として尾張の織田信長に使えたが、窮屈な武士の生活を嫌い、突如、主君の「利家」を水風呂に騙し入れ「前田家」を出奔(しゅっぽ ん)。その後、京都では「穀蔵院飄戸斎(こくぞういんひょっとさい)」と、ひょうきんな名前で自由気ままな生活をしていたが「直江兼続」との出会いから米 沢藩の「上杉景勝」に仕える事となる。その兼続と「関ヶ原の戦い」の北方戦となった山形の最上義光(もがみよしあき)との「長谷堂城(はせどうじょう)」 の合戦に参戦し上杉軍撤退の際の殿軍(しんがり)を勤めて大活躍をした。その時の慶次は「黒具足(くろぐそく)に猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織、金 (きん)のひら高い数珠を首にかけ、数珠の房(ふさ)と金瓢箪(きんびょうたん)は背に垂らし、大武辺者(おおふへんもの)の旗指物(はたさしもの)をつ け、愛馬・松風の頭には金の甲(かぶと)をかぶせていた。」と、その傾(かぶ)きたる姿は武将達を驚嘆(きょうたん)させたと伝えられている。世間の常識 や権力には断固屈しない男気の強い生き方をした戦国武将である。