<<飾り山笠紹介 奇襲一ノ谷合戦(キシュウイチノタニノカッセン) 生野 四郎 『源義経』幼名 牛若丸。源義朝の九男で父の死後、奥州藤原氏に身を寄せて、富士川の合戦(一一八〇年)の後、兄の頼朝に合流し武家政権樹立のため平氏討伐に向かいました。 頼朝から西国遠征の指揮を任された義経軍は、宇治川・栗津の...
<<飾り山笠紹介 若鷹快進撃(ワカタカカイシンゲキ) 置鮎 琢磨 今年のホークスはベテランと若手そろってばりばりやろうごとあるなぁ。 今年は日本一ばい。 監督はじめ玄海鷹たちもワンダホー。 オイサオイサで決勝点までいかないかんばい。 たのむばい。 博多山笠男衆オイサオイサで優勝してチャンピオンの旗...
<<飾り山笠紹介 合戦関ヶ原(カッセンセキガハラ) 中野 親一 一六〇〇年関ヶ原の戦いにおいて東軍の東海道の総大将を務める女婿松平忠吉を後見し供に先陣を勤めた井伊直正。 その活躍を草場の陰より見つめる直正育ての母 直虎。 愛と勇気のアンパンマン(アイトユウキノアンパンマン) 中野 浩 総務:中野 ...
<<飾り山笠紹介 福徳七福神(フクトクシチフクジン) 中村 信喬 博多祇園山笠の国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産登録と、地元紙の西日本新聞社が創刊140周年を迎えたことを記念して、福博の人々に多くの幸せが訪れるようにとの願いを込めて製作された。表は、天には鶴が舞い飛び、七福神の大黒天、...
<<飾り山笠紹介 湊川之戦い(ミナトガワノタタカイ) 生野 四郎 湊川の戦いは、一三三六年(建武三年)五月二五日に、摂津国湊川(兵庫県神戸市)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。 この戦いは、後醍醐...
<<飾り山笠紹介 一杖涕涙安宅関(イチジョウテイルイアタカノセキ) 亀田 均 今から約八百三十年前、ここは京から北に向かう北陸道にある安宅の関(現石川県小松市)。山伏姿の武蔵坊弁慶が『この迷惑者が』とばかり、強力を金剛杖で打ちすえています。 その様子を見守る関守の富樫左衛門。この疑われた強力こそ主...
<<飾り山笠紹介 邂逅洛中五条大橋段(カイコウラクチュウゴジョウオオハシノダン) 置鮎 正弘京の五條の橋に毎夜雲突くばかりの大入道が現れ何の遺恨か武士とみれば刀を取り上げ拒めば切り捨てるとの風評が京童(わらべ)の口に伝えられ昼の雑踏に比べ夜は森閑として誰一人通行する者もない。 大入道は今宵も忽然と...
<<飾り山笠紹介 おんな城主直虎(オンナジョウシュナオトラ) 中野 親一 戦国時代、遠江井伊谷を治めた井伊家の当主井伊直盛の嫡女『おとわ』は出家し次郎法師を名乗っていた。直盛死後、かつての婚約者であった領主直親を助けていたが、今川家より不信をいだかれた直親を失ってしまった。その後直親の遺児虎松の後...
<<飾り山笠紹介 助六由縁江戸桜(スケロクユカリノエドザクラ) 置鮎 琢磨 歌舞伎十八番の一つ。髭の意休と助六の恋のさや当てのようですが、実は助六とは曾我五郎時致。宝刀友切丸を探し出すため吉原で喧嘩に明け暮れていたのでした。 三浦屋の傾城、揚巻をはじめ華やかな江戸の粋がここにあります。 分福報恩誉...
<<飾り山笠紹介 決戦俱利伽羅峠(ケッセンクリカラトウゲ) 田中 勇 以仁王より義仲へ平家追討の令旨が下り挙兵した。治承五年平氏も義仲追討を命じ平維盛が総大将となり四万の軍勢を国境倶利伽羅峠に送り義仲軍の南下を防ごうとした。義仲は夜待って総攻撃を仕掛けた。平氏軍は大軍に恐れをなし戦う気がなさそうだ...
<<舁き山笠紹介 ○△□宏仁照花(マルサンカクシカク、コウジンハ、ハナヲテラス) 白水 英章 仙厓義梵(寛延三年~天保八年)は美濃国(岐阜県)の貧農に生まれ、十一歳で仏門に入り、行脚修行の後、寛政元年、三十九才に扶桑最初禅窟、安圀山聖福寺、第百二十三世の住職を努められました。 生涯を通じ権勢にこび...
<<舁き山笠紹介 決戦大江山(ケッセンオオエヤマ) 中村 弘峰 一条天皇の時代、京の若君や姫君が次々と神隠しに遭うことがあった。 安倍晴明の占うところによると大江山に棲む鬼の首領、酒呑童子の仕業だという。 帝は源頼光に酒呑童子討伐を命じた。 頼光は強力な家臣である頼光四天王(渡辺剛、坂田金時、碓井...
<<舁き山笠紹介 三級浪高魚化龍(サンキュウナミタカクシテウオリュウトカス) 亀田 均 中国太古の神話上の聖天子、舜(シュン)の時代、黄河は度々氾濫し、民衆は苦しんで居ました。舜は鯀(コン)に黄河の治水を命じましたが、失敗したので殺されてしまいます。その子、禹(ウ)が亡き父の遺志を継ぎ大事業に取り...