<<舁き山笠紹介 一喝百雷如(いっかつひゃくらいのごとし) 溝口 堂央 中国禅宗の初祖として尊仰されている菩提達磨がインドから初めて中国の地を踏んだ時、師の名声を聞き及んだ梁の武帝が面会を切望した。武帝は多くの寺院を建立し沢山の僧侶を庇護していた。 武帝は会うとこのことを話し『私にはどれほどの功徳...
<<舁き山笠紹介 肥後虎不屈逆境(ヒゴノトラギャッキョウニクッセズ) 西川直樹 加藤清正は、安土桃山時代(千五百六十二生)の武将、肥後の国(熊本)の大名で尾張国愛知郡中村の生まれ、幼名夜叉丸、元服後に虎之介清正、豊臣秀吉と同郷の出身、幼少(十二歳)より秀吉に仕える。清正の武名は、天正十一年、賤ヶ岳...
<<飾り山笠紹介 決闘巌流島(ケットウガンリュウジマ) 中野 親一 慶長十七年(1612年)四月十三日、細川家に仕え、小倉に道場を開いていた、佐々木小次郎に武芸者宮本武蔵が決闘を挑んだ。細川家長岡佐渡の仲介により下関の東に浮かぶ舟島に場所が設定された。当日わざと遅れてきた武蔵が小次郎を破った。巌流...
<<飾り山笠紹介 真田日本一之兵(サナダヒノモトイチノツハモノ) 川崎 修一 大阪冬の陣で真田丸を駆使して徳川軍を悩ませた真田信繁だが和平の後、大阪城を丸腰にされた。 半年後の夏の陣では徳川家康一人を目掛けて真田軍は総攻撃をかけ家康に死をも覚悟させるまでに追い詰める。 蘭陵王(ランリョウオウ) 川...
<<舁き山笠紹介 坂田怪童丸(サカタカイドウマル) 溝口 堂央 坂田公時(サカタノキントキ)「幼名 金太郎」がその怪力で瀧を登ろうとしている大鯉を捕まえようとしている場面。 江戸期からの立身出世を願う縁起物として好まれ武勇の象徴とされ親しまれてきた。 のちに源頼光の四天王として仕え酒呑童子を退治し...
<<舁き山笠紹介 鐵心肝 (テッシンカン) 置鮎 正弘 修行者が死をも畏れず、悟りを妨げる煩悩などの様々な障害を勇敢に打ち破り、精進して悟りに向かう志の固さをいう。 阿含経には『一人敵万人(いちにんばんにんにあたる)』とある。 『道を爲すとは、譬えば一人と万人と戦うが如し。鎧を掛けて門を出で、意或...
<<飾り山笠紹介 日本一の兵(ヒノモトイチノツワモノ) 中野 親一 真田丸は、1614年(慶長十九年)の大阪冬の陣において、豊臣方の真田信繁が大阪城平野口の南に構築した出丸である。平野口西南部は大阪城の最弱部であり、平坦な地形で堀も狭い。信繁は、出丸を築くことで、敵の注意を引きつけ、弱点を隠したの...
<<飾り山笠紹介 京都五條橋之上(キョウノゴジョウノハシノウエ) 亀田 均 平安時代末期、京では武蔵坊弁慶という荒法師が夜な夜な五条大橋に現れ、道行く人の刀を奪い取り恐れられていました。 弁慶は奪った刀を『千本集める』との悲願を立て、今夜がその千本目。 弁慶が大橋の真ん中で待ち構えていると、澄んだ...
<<飾り山笠紹介 智略真田勇戦誉(チリャクサナダユウセンノホマレ) 三宅 隆 関ヶ原合戦の後、政治の主導権を握った徳川家康は慶長八年(1603年)江戸に幕府を開いて諸大名を従え、豊臣氏にも臣下の礼を尽くす事を迫った。秀頼の生母淀君らはこれに強く反発。大阪城に武器、弾薬、食料を蓄え多くの牢人を集め...