<<平成二十五年度バックナンバー 忠誠真愛武士魂(ちゅうせいしんあいもののふのこころ) 中村 信喬 武士の義に生きた幕末の名君と称された「松平容保」 会津松平藩九代目の藩主。文久二年幕末京都守護職として、京都の治安と公武合体に力を尽くし、時の孝明天皇の厚い信頼を得る。その後、倒幕派は形勢を逆転、戊...
<<平成二十五年度バックナンバー 威風堂々忠儀漢(いふうどうどうちゅうぎのかん) 宗田 智幸 母里太兵衛は安土桃山時代から江戸時代にかけての武将であり、黒田如水、長政に仕え槍術に優れた武将として活躍した。文禄、慶長の役休戦中京都の福島正則の元へ長政の使者として使わされた太兵衛は、正則に「この酒を飲...
<<平成二十五年度バックナンバー 武勇長政公(ぶゆうながまさこう) 中村 信喬 永禄十一年(一五六八年)十二月三日、黒田孝高の婿男として播磨国姫路城に生まれる。幼名松寿丸。文禄元年秀吉の文禄慶長の役に従軍。慶長三年石田三成と対立。慶長五年家康方に付き東軍武将として関ヶ原にて戦う。西軍の小早川や吉川...
<<平成二十五年度バックナンバー 英傑傾天下尚潔(えいけつてんかにかぶいてなおいさぎよし) 川﨑 修一 群雄割拠の戦国時代にありながら権力や地位、名誉に囚われず傾奇者と呼ばれた漢がいた。彼は仲間同士と信義を重んじ自らの命を惜しまない気概を貫き通し颯爽とその時代を生き抜いた。
<<平成二十五年度バックナンバー 合戦石垣原(かっせんいしがきばる) 三宅 隆 黒田如水は軍師として秀吉に仕え、その功績により豊前豊後六郡を与えられ中津城を築城した。石垣原の合戦は一六〇〇年九月、元豊後の国主だった大友の義総 が旧領回復を目指して戦う。(大友宗麟の息子)大友義総は、秀吉に不始末をと...
<<平成二十五年度バックナンバー 武魁神剣誉(ぶのさきがけしんけんのほまれ) 川﨑 修一 祇園の祭神、素戔嗚尊が出雲に降りて来て八俣の大蛇にしいたげられている、足名椎、手名椎とその娘、櫛名田比売の為に八俣の大蛇を退治すると云う武勇談。 藤花三巴誇(とうかみつどもえのほこり) 川﨑 修一 秀吉の軍師...
<<平成二十五年度バックナンバー 軍師官兵衛(ぐんしかんべえ) 田中 比呂志 織田信長が褒め称え豊臣秀吉が頼りにし、徳川家康が恐れた戦国最強の軍師黒田官兵衛。如水と号して水の如くしなやかに生きあくまで信義を貫き通したその姿に敵さえも信頼を抱いたという。秀吉は官兵衛に九州征伐を命じ根白坂の戦いで島津...
<<平成二十五年度バックナンバー 起死回生尊氏陣(きしかいせいたかうじのじん) 中村 信喬 「太平記」で有名な室町幕府の初代将軍、足利尊氏は人望厚き武者だったようです。乱れた武士の世を正すため鎌倉幕府に見切りをつけて後醍醐天皇に味方し幕府を倒します。 しかし公家中心の政治を進める後醍醐天皇と対立し...
<<平成二十五年度バックナンバー 太閤博多の町割り(たいこうはかたのまちわり) 中野 親一 戦国大名の多くの合戦によって博多の町はたび重なる火災にみまわれ、国際貿易都市として隆盛をきわめたかつての面影はなくなってしまっていた。 天正十五年六月、博多に上陸した秀吉は黒田忠孝、石田三成に博多復興を命じ...
<<平成二十五年度バックナンバー 疾風誉若鷹(しっぷうほまれのわかたか) 置鮎 琢磨 この飾り山は、ソフトバンクホークスの活躍を信じ応援しています。 源平壇之浦決戦(げんぺいだんのうらけっせん) 三宅 隆 寿永四年(一一八五年)三月二四日源平最後の決戦が長門の国壇の浦で戦われた。平知盛を大将にした...
<<平成二十五年度バックナンバー 女戦士 八重のさくら(おんなせんしやえのさくら) 生野 四郎 慶応四年(一八六八年)鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発。やがて戦火は会津へと移りました。会津藩砲術家山本権八の娘八重は、鳥羽 伏見の戦いで負傷し、江戸で死去した弟三郎の形見の装束を着て、肩には最...